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東京地方裁判所 昭和44年(行ク)84号 決定

東京都狛江市小足立一〇四八番地

申立人 雨宮和夫

右訴訟代理人弁護士 植木敬夫

江藤鉄兵

山根晃

大森鋼三郎

小林亮淳

尾山宏

雪入益見

字津泰親

志賀剛

寺村恒郎

平山知子

飯田幸光

菊地紘

大森典子

大川隆司

東京都文京区大塚三丁目二九番一号

被申立人東京教育大学長 宮島龍興

被申立人兼右指定代理人 東京教育大学理学部長 印東弘玄

右訴訟代理人弁護士 堀内昭三

右指定代理人 綿貫芳源

〈ほか四名〉

右当事者間の執行停止申立事件(本案当庁昭和四四年(行ウ)第一七六号行政処分取消請求事件)について、当裁判所は、左のとおり決定する。

主文

本件申立てはいずれも却下する。

申立費用は申立人の負担とする。

理由

一  本件申立ての趣旨および理由、別紙(一)記載のとおり。

二  被申立人の意見、別紙(二)記載のとおり。

三  当裁判所の判断

(本件各申立ての適否について。)

(一)  申立人は、被申立人理学部長のした無期停学処分および被申立人学長のした放学処分が違法であると主張して、その無効確認および取消しを求める訴えを提起するとともに、その効力の停止を求めるため、本件各申立てに及んだものである。

ところで、大学においては、自治が認められており、この自治の機能が大学の学生に対する懲戒処分にも及ぶことは、論をまたないところである。しかし、大学の学生に対する懲戒処分が単なる内部的秩序維持の限度にとどまる場合は格別、学生の基本的権利に直接影響を与える場合においては、憲法が広く基本的人権を保障し、また、法の支配の原理を基調としている趣旨に鑑み、これがただ大学の自治の機能に基づくということだけで、その法律上の争訟性を否定することは、相当でないというべきである。そして、国公立大学の学生は、入学の許可により、当該大学において教育を受け、公の営造物たる大学の施設、設備を利用しうる権利を与えられるのであり、学生に対する懲戒処分としての無期停学は、学生のかかる基本的権利の行使を長期間かつ無期限に停止し、また、放学は、学生のかかる基本的権利を行使しうる法律上の地位を剥奪するものであるので、いずれも、教育的見地よりなされるところから、懲戒権者の裁量に基づく随時就学又は復学の可能性が残されているとはいえ、処分そのものは、大学の内部的秩序維持の限度にとどまることなく、学生の基本的権利に直接影響を与えるものとして、裁判所法三条にいう法律上の争訟に該当すると解するのが相当である。それ故、本件各申立ては、一応適法な本案訴訟の係属を前提としていて、申立ての要件の点において欠けるところはないというべきである。

(本件各申立ての理由について。)

(二)  およそ、学生に対する懲戒処分の効力が一旦停止されると、当該学生の残存在籍年限と本案判決の確定に要する年月との関係で、申立人に対し終局的満足を与えたに等しい結果を招来する事態の発生するおそれがあることは、疑いを容れないところである。しかして、執行停止は、抗告訴訟の提起があった場合において、当該訴訟の勝訴判決の効力実現の可能性を確保するために認められる暫定的な救済措置であることはいうまでもなく、しかも、民事訴訟における仮処分とは異なり、行政の円滑な運営を阻害するものである。このことに思いを致せば、処分若しくは処分の執行又は手続の続行によって生ずる回復の困難な損害を避けるため緊急の必要がある場合であっても、執行停止をすることによって申立人に対し終局的満足を与えたに等しい結果を招来するおそれのある処分について、執行停止が許されるためには、申立人が本案訴訟において勝訴の合理的確実性を有していると認められることを必要とするものといわなければならない。

そこで、以下、右のごとき基本的見解のもとに、本件各申立ての理由の有無を吟味するのに、

(本件無期停学処分の違憲性)

(1) 大学は、単なる営造物としての存在にとどまるものではなく、研究と教育の機関として、教官、職員のほか、学生をもって構成される共同体であり、大学の学生は、大学の組織内にあるものとして、一般社会における市民的自由以上に、学習の自由を有し、また、学内において広範な自治活動をなしうる自由を享有していることは、明らかである。そして、大学の構成員の間には、学問の研究、教育という共通の基本的目的にもかかわらず、その地位、職分および責任を異にし、世代的にも異なっている等の関係で、対立の契機が存在し得ることも、否定し得ないところである。また、個々の学生が共同意識に支えられて集団を形成し、その自治活動を通じ、集団としての存在を主張することも、自然であるといわなければならない。

しかし、いわゆる大学の自治は、固定的な概念ではなく、大学のおかれているそのときどきの時代的・社会的諸条件に適応した把握を必要とするものであるとはいえ、もともと、それが認められるにいたった所以は、大学における研究・教育の目的が絶えず新たな真理の探求と高度の学術研究を行ない、その成果を発表、教授することによって社会の健全な発展と調和に寄与することにあるが、かかる大学における研究、教育の目的を完遂するためには、必然的に既存の秩序と権威に対する懐疑的・批判的な態度をとらざるを得ないところから、憲法がこれを「学問の自由」として保障し、外部からの干渉、制約より保護しており、さらに、右の保障を実効あらしめるために、学問の研究・教育機関としての大学の管理運営を大学の自主的決定に委ねたのであると解すべきである。したがって、大学の自治は、直接には、教官その他の研究者に認められたものであって、それが従来いわれてきたごとく単なる教授会の自治にとどまり、それ以上に出ないものであるかどうかについては、議論の存するところであるが、少なくとも、大学における研究、教育とかかわりあいのない者に対してまで与えられたものでないことは、たしかである。そしてまた、現行法上、大学の管理運営権が大学当局に与えられていることも、動かし得ない事実である(たとえば、国有財産法五条、九条、教育公務員特例法四条、学校教育法一一条等参照)。

ところで、大学の学生は、本来、教育を受けるものであって、教官その他の研究者と対等、同質の意味における大学の構成員ではなく、せいぜい、その批判者的立場の域を出ないものであることからみて、前叙のごとく学生が大学の組織内にあるものとして一般社会における市民的自由以上に学習の自由を有し、また、学内において広範な自治活動をなしうる自由を享有しているのは、所詮、教官その他の研究者が憲法によって保障された学問の自由に基づき時の政治権力等の学外諸勢力よりの干渉を受けることなく研究やその成果の発表、教授を行ない、また、施設が大学当局によって自主的に管理運営されることに由来するものであって、学問の自由そのものに根ざすものではないというべきである。もっとも、この点については、学問の自由は、学生の基本的人権としての教育を受ける権利を実質的に担保する側面をも有しているから、学生には大学の自治の分担者として大学の管理運営に参加する固有の権利があるように主張する見解も存在する。しかし、教育を受ける権利は、経済的事情等により、国民が平等に教育を受けることを妨げられることのないよう、国の積極的な保護を要求するいわゆる社会権であり、前叙のごとき理由と要請のもとに大学における研究と教育の自由を保障した学問の自由とは、本来別個の権利であるが、大学の学生が市民とともに教育を受ける権利を憲法により保障されている以上、大学の学生のために、重ねて学問の自由を保障すべきいわれはない。かように、教育を受ける権利は、学問の自由とは別個の権利であって、一種の社会権にすぎないものであるから、かかる権利より学生には大学の自治の分担者として大学の管理運営に参加する固有の権利があることを導き出すのは、許されないものといわなければならない。また、学生の集会・結社および思想表現の自由も、いわゆる消極的自由であるから、これをもって学生に対し大学の管理運営に参加する固有の権利を認めることの根拠となすことはできない。

もとより、参加とは、社会の構成員が、平等の権利と義務とをもって、当該社会で行なわれる決定に対し積極的に関与するものであり、学生の参加は、大学共同体内部におけるかかる直接民主主義の基本的な形態である。そして、大学の自治は、前叙のごとく、大学における学問の自由の保障の実効を期するために教官その他の研究者に認められたものではあるが、それ以外の大学構成員に対してかかる参加権を与えることも、もとより、右の自治の権能に属する事柄である。これまで、大学構成員としての学生の自治の位置づけが不明確又は不適切であったことが、後に詳述するごとく、今次大学紛争の主要な原因のひとつとなり、大学制度の改革を押し進めるにあたり、学生の参加の問題が優先的にとりあげられている公知の事実に徴すれば大学の自治における学生の参加の問題は、現下の事態を予測しないで制定された前記諸法令の文理解釈のみによって容易に片付けられるものではなく、大学改革の進展と大学のおかれている社会的諸条件の改善に応じ、学生みずからの努力と、これに対する大学当局の謙虚な態度に支えられて、新しい大学の自治の中に築き上げられてゆくものというべきである。かように、今日の大学における学生の自治の位置づけは、理論上もまた事実上も、流動的な状態にあるとはいえ、少なくとも、まだ問題の解決をみない現段階においては、学生の前叙のごとき地位からみて、学生には大学の自治の担い手として当然に大学の管理運営に参加しうる固有の権利がある―つまり、学生の自治は、大学の自治の一環をなすものとは認め難く、学生が大学当局に対し、自治活動を通じて行なう要求も、窮極的には、大学の自治の決定機関による任意の採択にまかされているものというほかはないのである。

しかも、前叙のごとく、大学内においても対立の契機の存在することは否定できず、学生が大学の一構成員として教官ないし大学当局の方針、措置に対して批判を表明しうることも当然であるとはいえ、単なる言論による批判の域を超え、学生自らをも含む大学の教育的機能を停廃せしめることを目指して行なう一斉授業放棄等の抗議行動に出ることを容認し、これを正当な権利行使と観念するがごときことは、対等当事者間における相反する性格の利害の対立を前提とする労働者のストライキと異なり、学生が教官と対等同質の構成員ではなく、また、大学における対立の契機も基本的には共通の基盤の上に立つものであることを看過し、大学の自己否定を認める結果となるので、当裁判所の、到底、賛同し得ないところである。もともと、真理探求の場である大学における研究、教育は、整然たる秩序のもとで一定の規律に従うことによってはじめて可能なものであるから、大学の学生は、前叙のごとく、大学において広範な自由を享受することの反面、大学が研究・教育機関としての機能を営むうえで必要な規律に服すべき義務を負担し、自治活動の範囲を超えて大学の研究・教育機関としての機能を阻害する者に対しては、大学は、みずからの権限と責任において、一定の懲戒処分をなし得るものであり、また、それが大学に課せられた社会的責務でもあるといわなければならない。

されば、大学における学生が教官と対等同質の意味における大学構成員であり大学の自治の担い手として大学の管理運営に参加する固有の権利を有することを前提として、本件無期停学処分の違憲をいう申立人の主張は、排斥を免かれないものというべきである。

(本件各懲戒処分における裁量権の踰越又は濫用)

(2) 大学における学生が大学の自治の担い手として大学の管理運営に参加する固有の権利を有するものと認められないことは、前段説示のとおりである。しかしながら、戦後、社会構造そのものに大きな変革が生じつつあるなかで、大学は、教育の普及と学問の発達に伴い、その規模の急激な膨張と組織の複雑・拡大化をきたし、また、科学技術・産業経済の発展とより高度化の要請によって、大学の研究と教育が、好むと好まざるとにかかわらず、従来のごとく現行社会体制に対する批判者としての側面よりも、社会との結びつきの面がより強く表面に現われるようになったことと、学生の社会的意識の昂揚と大学をも含めた権威・体制に対する不信、不満が誘因となり、ほうはいとして既成秩序の変革を求める学生運動が起り、それをめぐって、各所にいわゆる大学紛争なるものが発生しており、しかも、かかる社会の転換期にみられる価値観の相違、円滑な意思疎通制度の欠如等にわざわいされて、大学紛争は、世代間の闘争の様相を呈しており、それだけに、現下の急務とされているいわゆる大学問題を解決し、大学制度の改革を押し進めてゆくにあたっては、前叙のごとく学生の自治が大学の自治の一環をなすかどうかの問題とは別に、学生の意見や希望を真摯に受けとめ、それを大学の意思形成の過程に取りいれることが、不可避的な要請となっていることに思いを致せば、大学の学生が大学当局のする管理、運営に反対し、自分達の要求を実現するために行なう一斉授業放棄は、学生の自治活動として正当な権利行使といえないこと前叙のとおりであるとはいえ―それが特定の政治目的をもって既成秩序の破壊をめざすものであれば格別―授業放棄そのものを学生の本分にもとる規律違反の行為として、一般的非行と同様に取り扱うことは、失当たるを免かれないと解するのが相当である。とはいえ、本来学問と理性の府であるべき大学において、暴力行為やそれ自体直接大学の正常な機能を麻痺せしめることを目的とする施設の封鎖又は占拠等の絶対に許されないのはもとより、自治会の決定に基づく場合であっても、単純な授業放棄はともかくも、それ以上の行動に訴えることも、それが、本来、授業放棄に反対する学生の授業を受ける権利や教官その他の研究教育の自由を侵害する性質のものであるから、相当長期にわたって行なわれ、回復し難い重大な結果を招来するに至ったときは、その実行を担当した者のみならず、執行機関としてかかる行動を計画、立案し、決議の執行を指令した者も、その責任を問われることは、当然であるといわなければならない。

被申立人らは、大学の学生に対する懲戒処分は、大学の自治の権能に基づき大学の責任においてなされるものであり、かつ、大学の自治の認められた趣旨・目的が前叙のごときものである以上、当該処分が全く事実上の根拠を欠いているとか、社会観念上著しく妥当性を欠き到底教育的目的に出たものとは認められないような場合を除き、懲戒権者の自主的裁量権が尊重され、裁判所の司法審査権はこれに及び得ないと主張する。そして、かかる見解は、最高裁判所昭和二九年七月三〇日第三小法廷判決(同庁昭和二八年(オ)第五二五号、同年(オ)第七四五号、民集八巻七号一四六三頁、一五〇一頁)の示すところでもある。しかし、大学の学生に対する懲戒処分は、大学がその自治の権能に基づいて行なう教育的措置であるから、懲戒処分に付するかどうか、また、懲戒処分のうちいかなる処分を選ぶべきかの判断は、学内の事情に通ぎようして直接教育の衝に当っている処分権者の裁量に待つのでなければ、適切な結果を期待し難いことはいうまでもないが、被申立人ら主張のごとく、その裁量権の行使がほとんど全面的に肯定され、前記のような極めて限られた場合でなければ司法審査の道が残されていないといいうるためには、大学という研究と教育とを目的として構成される共同体において、教官と学生又は教官相互間等に本質的な対立の契機が存在しておらず、大学の権威ないしは権限行使の妥当性が一般的に承認されていることを前提とするものであること多言を要しないところである。しかるに、現下の大学紛争をめぐり、前段叙説のごとき事情によって、教官と学生との相互信頼関係が全く喪失し、大学の権威自体が問われて懲戒処分の基盤そのものが大きくゆらいでいる等右の前提条件の欠けている場合には、該前提条件の具備されている事案についてなされた前記判例をそのまま適用することは許されず、むしろ、通常の裁量処分におけるのと同様に、処分事由の存否はもとより、当該処分が教育的措置としての目的、範囲を逸脱するものでないかどうかということも、裁判所の審査に服するものと解するのが相当であり、本件訴訟がかかる場合に属することは、本件弁論の全趣旨に徴して極めて明らかである。

ところで、いわゆる大学紛争の過程において行なわれた行為が処分事由とされているときは、その審査にあたり、裁判所が当該行為の動機、目的を考慮するのはいうに及ばず、右の処分事由が本来的には紛争の両当事者にかかわりあいをもつことに基づくものであり、しかも、特別の立法のない現行法のもとにおいては、当然のことながら、紛争の一方の当事者たる大学当局自身の判断によって懲戒処分が行なわれることに鑑み、処分事由とされた行為の法的評価も、静的・絶対的に行なうことなく、紛争の一方の当事者たる大学側の態度、事情と合わせて流動的かつ相対的になすことが、特に、肝要であり、被申立人ら主張のごとく、ただ単に被処分者の行為のみを取り上げ、それによって大学の正常な業務が害されたかどうかという観点からのみ論ずべきではない。

いま、本件についてこれをみるのに、疎明によれば、

(イ) 本件無期停学処分が東京教育大学のいわゆる筑波移転問題について理学部学生自治会の実施した教官排除の一斉授業放棄は学則五八条所定の学生の本分に違背する行為に該当するものとして行なわれたこと、そして、右学則五八条には「学生がその本分に背いた行為をした時は、懲戒処分に処する、懲戒処分は、戒告、停学、放学の三種とする。」と規定されていることは、明らかである。

ところで、いわゆる教官排除の一斉授業放棄は、申立人主張のごとく、筑波移転問題が執行部を中心とする一部強硬派の教官らの策謀のもとに、いわゆる朝永原則を踏みにじった非民主的な方法により、しかも、大学全構成員の圧倒的多数の反対を押し切り、既成事実を積み重ねていって、強引に移転と決定されことに対して抗議するとともに、新大学の基本とする管理運営体制を粉砕して、学生の真摯な意見を右の審議に反映せしめることを目的として、実施されたものであるとしても、もともと、東京教育大学のごとき国立大学移転の問題は、当該大学の存立にかかわるばかりでなく、直接大学構成員の研究・教育生活条件等に重大な影響を与えるものであることは、否定し得ないところではあるが、本来的には、移転の場所および移転の時期をも含めて、当該大学のみで自主的に決定する管理運営の域を超えた、国家の文教政策に基づく、しかも、財政支出を伴う政治問題に属するものであるというべきである。そればかりではなく、右教官排除の一斉授業放棄の実施に際して行なわれた個個具体的な阻止行動が、ただそれだけを取り上げてみた場合には、申立人主張のごとく言論の自由の範囲にとどまるものであるとしても、そもそも、教官排除の一斉授業放棄は、前叙のごとく、現行法上は容認されていない抗議行動であって、それにより学生自らも含む大学の研究教育機能の主要部分を停止せしめることを目指するものであり、重大な結果を招来することのあるのは十分予想されうるところであるから、これを計画立案し又は実行、継続する者は、いかに紛争状態にあったとはいえ、責任の重大性に鑑み、軽々に一方的な見解や自己の認識のみに基づくことなく、当該学部の教授会ないしは大学当局の見解を十分聞くのはもとより、その実施により回復困難な重大な事態の発生することのないような万全の配慮をなすべきことは当然であるといわなければならない。しかるに、この点の配慮がなされたことを認めるに足る資料はなく、却って、昭和四三年九月二〇日の「理学部教職員、院生、学生懇談会」においてその機会が与えられ、なお、同旨の会合をもつことが約束されていたにもかかわらず、申立人を含む理学部学生自治会幹部は学生の問題としている点についての教授会側の見解を聞くことを敢えて拒否し、即日学生大会を開催して右の教官排除の一斉授業放棄が実施されるに至ったこと、また、その後も、学生の威力を背景とする行動のために、教授会側の真意が必ずしもそのまま通じなかったとはいえ、また、教授会自身としても、その誠意において欠けるところがなかったとはいえないにしてもともかくも、教授会は、学生との話合いの場をもつべく前向きの姿勢で審議を重ねてきたし、また、学生側の要請する全学集会が遂に実現の運びには到らなかったけれども、評議会においても、その開催を目指して各教授会の対立意見の調整に努力してきたのである。しかるに、教官排除の一斉授業放棄は、そのまま継続され、昭和四四年二月二八日まで約五か月間の長きに及んだため、たとえ、その間、院生、助手を中心として各教室単位に行なわれる四年生の卒業研究や院生の卒業、入試は、例年どおり実施されたにしても、理学部教授会構成員(教授、助教授)による研究、授業等大学本来の機能は、全く麻痺し、遂に入試中止という異常事態を招来し、四年生の卒業さえ危ぶまれる状態に立ち至ったことを認めることができる。したがって、右教官排除の一斉授業放棄を計画、指導し、また、自らもその実行に当った原告は、規律違反の責任を免かれないものというべきである。

されば、前叙のごとき事実関係のもとで、被告理学部長が前記認定に係る申立人の所為を学則五八条にいう学生の本分に違背する行為に該当するものと認定し、懲戒処分のうち無期停学を選定して行なった右処分は、本件疎明によって認められる、同処分に「本人が反省したと認められる場合には、教授会の議を経て処分を解除し、逆に、今後とも同一の違法行為を繰り返す場合には、放学処分にする。」との条件の付せられていることをも勘案すれば、被申立人らの挙示するその余の具体的処分事由の有無の認定をまつまでもなく、これを被申立人理学部長に与えられた裁量権の範囲を逸脱し又はこれを濫用した当然無効のものとは、到底、認め難い。

(ロ) さらに、本件放学処分についていえば、およそ、停学処分は、学生の地位を停止する懲戒処分であるから、これにより被処分者は、授業を受け得ないのはもとより、当然には構内に立ち入る権利をも有しないものと解すべきであり、しかも、本件疎明によると、昭和四四年二月二八日以降東京教育大学においては入構制限が敷かれていたにもかかわらず、申立人は、無期停学処分中、しばしば同大学の大塚キャンパスに無届入構して、各種の集会、抗議行動に参加して授業や教授会の議事を妨害しまた、自ら大学当局に対し理学部学生自治会委員長代行の資格で提出していた学生大会開催のための教室使用許可願いが、申立人は自治会規約に基づく正当な資格者とは認められないという理由で拒否されたところから、東京大学農学部学生自治会員らの手引きにより、同大学農学部に赴き、同大学当局者の制止にもかかわらず、無断構内に立ち入り、かつ、同大学農学部長の二回にわたる集会中止・解散命令をも無視して、「東京教育大学理学部学生大会」と称する集会を開催、続行し、同大学に対して多大の迷惑をかけたばかりでなく、東京教育大学としても書面で陳謝の意を表明し、その体面を著しく傷つけられた。

また、その間、申立人は、学級担任の大森助教授と教室主任の須藤教授の補導に付せられていたにもかかわらず、これら補導教官らの補導を一切拒否してきた。

こうした事情があったので、理学部教授会は、申立人には反省の色が認められず、同人の以上のごとき行為が前期無期停学処分の際における教授会の申合せの条件に該当するものであると判断し、また、補導教官からもこれ以上補導の責任はもてない旨の申入れがあったので、申立人を放学処分に付することを決定して、その執行の時期を学部長に一任し、学部長は、申立人が反省して学業に専念する決意を表明するのを期待して約一〇日間待っていたが、その期待も水泡に帰したので、同月三一日遂に処分の執行に踏み切り、被申立人学長によって本件放学処分が行なわれるに至ったことを認めることができる。

しかして、以上認定の諸事実に徴すれば、いわゆる入構制限が仮りに申立人主張のごとく違法の措置であるとしても、本件放学処分が被申立人学長に与えられた裁量権の範囲を逸脱し又はこれを濫用した違法のものであるとは、到底、認めることができない。

(手続上の瑕疵)

(3) 憲法三一条の保障する法定手続の規定がアメリカ憲法の影響のもとに設けられたことは、否定できないが、同条が刑事の手続のみならず、基本的人権にかかわる行政の手続にも適用ないし準用があるとしても、その法的土壌と立法の沿革を異にするわが国において、同条の規定する「法律の定める手続」の意味内容を、アメリカ合衆国憲法修正第五条所定の「適法な手続」(デュー・プロセス)と同意義に理解して、事前の手続のみに限定することは、早計であるといわなければならない。また、事前手続の要請を、自然的正義ないし条理であると観念することも、各特別法毎に個別的に事前手続の規定が設けられているにすぎず、一般的には、事後救済手続としての行政不服審査法によらしめることとし、事前手続としての行政手続法が制定されていないわが国の現状に照らし、にわかに首肯し難いところである。むしろ、わが国の現行法体系のもとにあっては、当該行政処分が単に基本的人権にかかわるものであるということだけで、直ちに、事前手続の履践が処分の有効要件であると一律に解することは妥当でなく、各具体的事件における基本的人権の種類、行政処分の性格ないしはこれによる権利侵害の程度に応じて、事前手続の要否、処分の効力等を弾力的に理解するのが相当である。

いま、これを大学の学生に対する停学、放学等の懲戒処分についていえば、それが教育的見地から学内規律を維持するために行なわれる措置であることに鑑みれば、学則に特段の規定ないしは慣行の存する場合は格別、然らざる場合にあっては、学生を懲戒処分に付するに際し、いかなる内容、程度の事前手続を履践すべきかは、処分権の発動および処分の選定と同様に、教育の衝に当っている処分権者の判断に委ねられているのであって、その違反は、裁量権の踰越又は濫用の問題として、司法審査に服するものというべきである。

ところで、本件疎明によれば、東京教育大学においては、学生を懲戒処分に付するにあたり、本人に対して告知、弁明の機会を与えるべき旨の学則ないしは確立された慣行は存在していないが、本件無期停学処分に際しては、学生自治会の正副委員長から教官排除の一斉授業放棄の決定されるにいたった経緯、右両名が実質的にも自治会の責任者として行動したものであるかどうか等を確認する目的で、前後三回にわたり、理学部長宮島龍興名義で、「事情聴取のため」と記載した呼出状と題する書面により、申立人に対し理学部長室に出頭するよう通知し、また、その間浅香学生委員長から電話で申立人の母親に対し右呼出状の趣旨を説明し、本人にその旨を伝えて出頭するようすすめてくれることを依頼し、その承諾を得たこと、なお、申立人から理学部学生委員に提出された「公開質問状」なる文書については、浅香、渡部両委員より申立人に対し一応の回答がなされていること、また、東京教育大学において本件のごとき無期停学処分をするにつき補導連絡協議会の承認を得なければならないことになっていることを認めるに足る資料はなく、却って、本件疎明によれば、東京教育大学補導連絡協議会規程九条には「この会において協議した事項中、決定を要するものは関係学部の承認を得なければならない。」と規定されていることが明らかである。

次に、本件放学処分にあたり、申立人に対して告知、弁明の機会が与えられなかったことは、明らかである。しかし、単にかかる一事をもって本件放学処分を違法と断定し得ないことは、前段説示のとおりであるばかりでなく、前記認定のごとき本件放学処分の行なわれるに至った経緯に徴し、本件放学処分が申立人の全然予期し得ない事情のもとになされたものとは、到底、認められない。

されば、本件各懲戒処分は、その手続の面においても、申立人主張のごとき瑕疵はないものというべきである。

以上の説示によって明らかなごとく、本件に現われた全資料をもってしても、本件各申立ては、その本案訴訟について必らずしも勝訴の合理的確実性があるものとは認め難いので、爾余の点について判断を加えるまでもなく、この点において理由がないものというべきである。

よって、本件各申立てを却下することとし、申立費用の負担につき行訴法七条、民訴法八九条を適用して、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 渡部吉隆 裁判官 園部逸夫 裁判官 渡辺昭)

〈以下省略〉

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